知識の化学反応についてちょっと考えてみた。

「これはえがい」の人には興味がないけど、WEB時代の知識というものには興味があります。

自然科学によって何が共有されるようになったか
WEB時代の知性と「これはえがい」の人
情報社会で知識の価値は減ったのか これは私の記事です。

人の体験など、たかが知れているので、たくさんの人の経験(の一部ではあるけど)を知識として溜め込むことは非常に有意義なことだと思います。私も、tikani_nemuru_Mさんが書かれているように知識が一人の頭の中に積み込まれることで化学反応のような事が起きて新たな見解が出てくる、ということがあると思いますし、それを文書としているのが論文であると思うわけです。

Lhankor_Mhyさんは、そうではないのではないか?と思われているようです。
>個人の脳内でおこる「知識の化学変化」というものは、集団による「知識の化学変化」に及ばないのではないかと思うのです。

まったく反対というわけではありませんが、「知識の化学変化」は意図してできるものと、意図しないで化学変化してしまうものとがあることを考慮されていないかと。

引用しますが、
> たとえば、挙がっている孫子ハンニバルとナポレオンの知識の例をとります。Aという孫子に造詣が深い人物が孫子について述べ、それを受けてBがナポレオンを引き出して意見を述べ、そのやりとりを見ていたローマ史好きのCがハンニバルを引き合いに参考になる事例を出す、などという集団があれば、個人レベルの化学反応は容易にはそれに及ばないのではないでしょうか。

BさんがAさんの叙述を受けて意見を述べた時点で、Bさんが必要と思うことだけを表に出しています。すなわちBさんの中で化学反応が起きて、結果が出ています。Bさんは孫子についてAさんがしゃっべったことしか知らないので、本来おきるべき化学反応がおきず、不十分なままの反応でBさんが発言しているのではないか。十分な化学反応を起こすためには一人の中で、それぞれの知識を蓄えないといけないのではないか、と思うわけです。

知識の化学反応というのは比喩だけど、触媒というものもあるでしょう。「孫子ハンニバルとナポレオンの知識を化学反応させるのに触媒があるといい反応を起こすかもしれない。たとえば経営戦略に関する知識とか。軍隊に関する知識とか。
この触媒というのは化学反応を起こさせる(この場合なら孫子ハンニバルとナポレオン)対象とはまったく反応しないから、それぞれの知識を別個の人が持っていても化学反応にならない、あるいは不十分な反応にしかならない。

知識の化学反応は、既にわかっているような反応ではなく、反応することがわかっていないものが反応してしまうようなものだと思います。思いもかけず、知識の関連性が見つかった、というようなもの。

複数人で知識を共有するほうが化学反応がよりよく反応するだろうということはあると思いますが、とんでもない発見といったようなものは個人の中での「知識の化学反応」でも起こりうる、と思います。


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