ここの文章を読んで、ちょっと感じたこと。 http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090520/p3 以下、引用。
<quote>たとえばだ。ある日突然警察が、ミロのビーナスはハレンチだから破壊します、とか言い出したら、どうなるだろう?
みんな、「表現の自由」を主張してミロのビーナスを擁護するか?
多分そうはならないね。2千年から人類が受け継いできた貴重な芸術作品になんて野蛮なことをするんだ、と批判するだろう。まず。
もともと価値があると分かりきってるものを擁護するのに、抽象的な「表現の自由」なんてものは必要ないんだよ。
それが、くだらないもの、有害なもの、もしくは一見そう見えるものだからこそ、擁護するのに「表現の自由」が使われるんだ。
俺はその作品の価値を認めない。だから表現の自由を認めない。文句があるなら価値を認めさせてみろ。そういう物言いは、だから詭弁なんだよ。表現の自由という概念を認める気がない、ということなんだ。スポイルする論法なんだ。
貴方が価値を認めるような作品は、表現の自由を主張するまでもなく、貴方の迫害対象にはならないだろうからね。</quote>
ミロのビーナスには価値があります。ひとつは芸術的価値であり、もうひとつはその歴史的価値です。ミロのビーナスに芸術的価値が全くなかったとしても、歴史的価値は残ります。また、芸術的価値というのは固定的なものではなく、時代や観念によって変わるものです。あるときは全く価値が無くても、時代が下ると価値が出てくる、というのはよくあります。
この文章の中で「表現の自由」が語られていますが、表現するのは作者です。「表現の自由」は、「思想の自由」と対になっています。対象となっているのは作者であり、表現者です。芸術作品であるなら、その作品に全く価値が無い、などとは言えません。もしかしたら私には価値が無いかもしれない。今の社会では価値が無いかもしれない。でも他の人、新しい時代になったら価値が出るかもしれない。その作品を破棄してしまうと、その将来起こりうる価値をなくしてしまう。なので、私に対して価値が無くても、他の人が価値がある、ということであれば、その作品は保存するべきなんじゃないか、と思うのです。その価値を私に認めさせる必要はありません。
私にはこの文章が「作品」自体に「表現の自由」を使っているので違和感を感じます。ミロのビーナスで言えば、作者はすでに死んでおり、表現の自由はすでにありません。表現の自由がもともと無いので、「表現の自由」を理由としてミロのビーナスを破壊するな、という論拠はないのです。