キャンドルナイトは本質からずれていないか

この2,3日、梅雨の間だというのに天気が良い。
私は小学生のとき、夏至には太陽が1年中で一番高くなる、というのを知って、夏至の日の12時に影の長さを知りたい、と思ったものだ。
今でも思っているが。

しかし日本では夏至の頃はちょうど梅雨の真っ最中で、12時に太陽が出ていることはほとんどない。
なので私は夏至の日にどれだけ影が短くなるのか知らない。

まぁ、ザンビアに住んでいたときは年に2回、太陽が真上に来る日があったので、影が短いのがどういうものか、というのは知っているけど。

そんな思い出のある夏至であるが、数年前からこの太陽と地球の位置関係が特別な日(夏至、冬至、春分、秋分)にキャンドルナイトと題して夜の2時間ほどの時間を電気を消して環境について考えよう、というようなイベントが始まった。

ザンビアはアフリカ中南部の国で、電気は少ない。村には電気がないし、私は教師として働いていたので、学校の敷地内で生活していて電気はあったが、停電はよくあることで、蝋燭は生活の必需品だった。

そんな生活を経験すると、キャンドルナイトの意義がどうも胡散臭く感じてしまう。
まぁ、電気のありがたさを思うのはいいことだ。

だが最近のキャンドルナイトに関わる情報は商業主義に走っているような感じがする。感じだけだけど。

電気を2時間ほど消したって、二酸化炭素の削減には全く役に立たない。それを間違って役に立っていると勘違いしている輩が多くないか?
単に蝋燭の火の美しさに酔っているだけではないか?

goo!ブログのランキングを見て思ったことでした。